市長のやまがた自慢「歴代山形城主」

ページ番号1005503  更新日 令和3年9月28日

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写真:東大手門
春の霞城公園(山形城跡)東大手門

前回、会津藩祖である保科正之公が山形城主だったことを書いたところ、何人かの方から「全然知らなかった」とのお声をいただきました。山形藩主の家系は、最上氏改易ののち10回以上交代したため、全部知っている方のほうが少ないかもしれません。
最上氏のすぐ後に山形22万石に入封したのは鳥居家です。鳥居忠政は関ケ原の戦いの前哨戦で伏見城で玉砕した徳川家の忠臣鳥居元忠の子息で、庄内の酒井氏、新庄の戸沢氏も鳥居氏の姻戚関係です。佐竹、伊達、上杉など、大藩が多い東北地方の「抑え」としての役割が期待されました。鳥居氏時代には、寺院の配置換えや山形城の改造、現在の文翔館周辺を流れていた馬見ヶ崎川の流れを変える大工事を行っています。
鳥居家の次が20万石で入封した保科家になります。保科正之は二代将軍徳川秀忠の子で、信州高遠城主保科正光の養子となって保科家を次ぎ、そこから山形に入りました。7年間の治世の間、領内の検地や流通網の整備、馬見ヶ崎川の決壊による被害への対応などを行いました。
次に松平直基が越前国大野から15万石で入封しました。石高も家の交代の都度、少なくなっていることがわかります。その後は、別系統の松平氏や堀田氏、秋元氏、水野氏など、譜代大名(関ヶ原の合戦以前より徳川家に仕えていた家系の大名)が続き、幕末には5万石となりました。山形城はもともと最上家57万石の大城郭であったため維持も大変だったようです。
譜代大名の特徴は、石高は少ない一方で、老中、若年寄など幕府の役職に就くことですが、山形城主も幕末までそのような形が続きます。城主の頻繁な交代の裏返しとして、山形の商人は自立性が高かったというのは定説ですし、異文化の融合もあったのでないでしょうか。今の山形市においても注意深く観察すると各時代の痕跡が見つかると思います。ぜひチャレンジしてみてください。

(広報やまがた平成31年4月1日号掲載)

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