ヒロシマ原爆・平和展
本年度は、広島市の協力により普段は広島でしか見ることができない貴重な被爆資料や、広島の原爆被害の概要、現在の核兵器の状況について説明した写真パネルなどを展示します。
私たちの今の社会が、国内外の多くの犠牲によって成り立っていることを考えると「戦争」は決して忘れてはならない出来事です。わが国では、戦後78年がたち、戦争を経験し当時を語り継ぐ人が少なくなっています。これからを担う私たちが、平和で明るい未来をつくるために、当時平和を強く願った人々の思いを考えることが大切ではないでしょうか。
もし、自分が被爆したら…もし、大切な家族が巻き込まれたら…身近な人に思いを寄せながらぜひご覧ください。
■時 7月28日(金曜)~8月9日(水曜)
■所 市役所1階エントランスホール
木島和雄さんの定期入れ
崇徳中学校3年生の木島和雄さん(当時15歳)は倒壊した駅舎の梁に片足を挟まれた。警察官の西倉二さんが懸命に引き抜こうとしたがどうしても抜けず、「助けられない。許してくれ」というと、和雄さんは「ありがとうございました。これを宮島の家の者に渡してください」と定期入れを預けた。駅舎はその後炎に包まれた。西さんはその後、定期入れを和雄さんの家族に届け、最期の様子を伝えた。
(寄贈/船附小子 所蔵/広島平和記念資料館)
三輪車、鉄かぶと
銕谷伸一ちゃん(当時3歳11カ月)は、この三輪車で遊んでいる時に被爆した。全身に大やけどを負った伸一ちゃんは「みず、みず…」とうめきながらその晩亡くなった。父親は伸一ちゃんに鉄かぶとをかぶせ、死んでからも遊べるようにと三輪車とともに庭に埋めた。
被爆から40年後、父親が遺骨を墓所に移そうとこれらを掘り起こした時、鉄かぶとの中には伸一ちゃんの丸い頭の骨が残っていた。
(寄贈/銕谷信男 所蔵/広島平和記念資料館)
■問 広報課 内線229
原爆が投下される前の生活
これは、原爆が投下される前の広島の様子です。路面電車が走り、街には映画館や劇場もあり、多くの人でにぎわっています。山形市にも、商店街に買い物客が行き交う、今と変わらない人々の日常がありました。
戦時下の生活
戦争が始まると、多くの人が軍隊に召集され、大切な家族を残して戦争に向かいました。働き手が不足したので、子どもたちは食べ物を確保するために畑で野菜を作ったり、軍のための工場で働いたりしていました。
多くの中学生は、建物疎開といって、爆弾が落とされたときに火事が広がらないように家を壊して空き地を作る作業をしていました。小学校3~6年生は、学童疎開といって家族の住む所から離れた田舎のお寺などで集団生活をしていました。山形市にも、東京などから集団疎開に来ていた子どもが多くいました。
全国の県庁所在地のほとんどは空襲を受けており、1945(昭和20)年8月14日時点で東北の県庁所在地で戦災を受けていないのは山形市と秋田市だけでした。その秋田市も15日未明に空襲を受け、山形市にも空襲が来ると思われましたが、8月15日に終戦を迎えたため、山形市は数少ない非戦災都市となりました。
被爆体験証言者講話
被爆者ご本人(被爆体験証言者)が、ご自身の被爆体験を証言します。
山瀬 潤子(やませ じゅんこ)さん
1936(昭和11)年生まれ。国民学校3年生で8歳の時、広島駅前の自宅が建物強制疎開にあったため、爆心地から2.2km離れた段原中町へ引っ越した後に被爆。2020年(令和2年)から広島平和記念資料館の被爆体験証言者として活動している。
※体調不良等の事情により、講師が変更になる場合があります。
■時・所 8月8日(火曜)
(1)午前10時30分~ 市立図書館
(2)午後2時30分~ 市民会館
■対 (1)先着30人 (2)先着200人
※(2)は手話通訳有り
■申 次のリンク先またはファクス(ファクス 641-2535)で広報課へ
戦争と平和の資料展
原爆・平和関連の図書を集めました
折り鶴コーナーや平和へのメッセージコーナーなどヒロシマ原爆・平和展関連コーナーを設置します。
■時 7月29日(土曜)~8月24日(木曜)(休館日:毎週月曜日)
■所 市立図書館
■内 原爆関連図書の閲覧、被爆体験手記の展示、子ども向けパネルの展示など
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