現在の位置
ようこそ、市長の部屋へ
市長のやまがた自慢
市長のやまがた自慢「水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)と豊烈神社」

市長のやまがた自慢「水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)と豊烈神社」

ページID : 106203
 来年は明治維新から150年にあたりますが、山形藩の幕末の歴史をご存じでしょうか?幕末の山形藩主は水野家。天保の改革で有名な水野忠邦の家系であり、水野家を祀っているのが豊烈神社です。
 他の東北の大名家と同様、幕末の山形藩は大変厳しい状況に直面しました。戊辰戦争直前の慶応4年、藩主水野忠弘と父の忠精は京へ上りましたが、そのまま事実上の軟禁状態となり、藩主父子が不在という異常事態になります。その際、山形藩の指揮をとったのが一族で首席家老の水野三郎右衛門元宣です。なんと、20代半ばで藩の行く末を一身に背負ってしまったのです。
 奥羽越列藩同盟に参加したものの、次第に形勢は不利となってきます。幕末には小規模になっていた山形藩は恭順か抗戦か、周辺諸藩との関係をどうするかという難しい判断を迫られます。そうした中、三郎右衛門は戦費の調達や他藩との交渉に奔走しました。
 結果山形は戦場となることなく敗戦を迎えます。三郎右衛門は責任を一身に背負って斬首されました。山形藩を戦火から救った若き家老の功績を私たちは忘れてはなりません。豊烈神社の境内に入ってすぐ右に立っている像が三郎右衛門です。
 もう一つ、豊烈神社で忘れてはならないのが、山形県指定無形民俗文化財である「打毬」です。これは、ペルシャで発祥し平安時代に日本にも伝えられた競技で、英国の「ポロ」も起源は同じです。紅白2組に分かれた騎士が、毬杖で地面の毬をすくい、毬門(穴)に投げ入れて点数を競います。神事として行われ、現在残っているのが宮内庁、八戸市の長者山新羅神社と豊烈神社の3カ所だけという大変貴重なものです。10月6日の例大祭の日、三郎右衛門をしのびつつ、ぜひご覧いただきたいと思います。
 
(広報やまがた平成29年8月1日号掲載)
 

このページの作成・発信部署